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株式会社北條製餡所

あんが持っている素材本来の美味しさと魅力を活かし"安心・安全で美味しいあん"に、こだわりを持って皆様にお届けしていきます。

日本の四季折々を彩る菓子文化と、あんのあゆみ。「あん」の話

移りゆく季節を眺めながらお茶を点てる「野点」の文化。そして、お茶の傍らにいつも添えられるのが、四季折々の季節感を豊かに表現する和菓子です。"あん"を使った菓子は、桜餅、おはぎ、月見団子のように季節を彩る行事には欠かせません。そしてもちろん、あんみつやしるこなどの身近なおやつとしても、長い間、世代を問わず多くの人々から親しまれ、愛され続けています。ところが、日本独自の食材にも思えるこの"あん"の起源が、実は日本ではなく中国大陸にあることをご存じですか?「あん」は今から約1400年前、大和時代に遣隋使が大陸の文化とともに持ち帰ったものだとされています。しかしそこから、現在の私たちがよく知っている「あん」の姿になるまでには長い歴史がありました。

中国では辞書の原点ともされる「大言海」に「あんの多くは肉であった」と記されているように、当時の"あん"は、米や小麦などで作った食物の中に詰めるいっさいの具材を総称するものでした。日本の"あん"が肉類から豆類を使ったものに変わったのは、一説によると、僧侶たちが肉食を避けるために、小豆を代用品として用いたからだとも言われています。
豆類を使った"あん"は、はじめは塩や甘葛(あまづら:つる草の一種で、その液汁は天然の甘味料として用いられた)などで味付けされていましたが、室町時代になると中国から渡来した砂糖によって甘味が加えられるようになり、現代の私たちが食べている"あん"の原型ができあがりました。また、鎌倉時代後期から安土桃山時代にかけて「点心」が渡来し、お茶を飲むという風習が暮らしに溶け込むのとほぼ時を同じくして、南蛮貿易が盛んになり「かすていら」や「金平糖」も渡来しました。これら南蛮菓子に刺激されて、日本の製餡技術と和菓子も急速な発展を遂げました。

一方、"あん"とは切っても切れない関係にある"餅"の発祥はさらに昔へさかのぼり、弥生時代の紀元前200年ごろといわれています。この頃、すでに祭事などのハレの日には餅や飴が食されていたらしいことがわかっています。その餅が「あん」と結びついた記述が見られるのは鎌倉時代末期のこと。「神宮旧記」(文保記1317〜1318)には、「焼き餅は小豆を中にこめ、汁粉餅は小豆を上に付ける」との記載が見られます。その後、しるこは関西では「ぜんざい」へ、焼き餅は大福やあん餅へと発展しました。
また、代表的な和菓子として餅やまんじゅうと並んで挙げられる羊羹の歴史も古く、日本で現在のような練羊羹が誕生したのは安土桃山時代のことでした。羊羹の前身は「羹(あつもの)」と呼ばれるもので、中国ではやはり肉を使った料理でしたが、わが国に伝来後は、蒸した豆粉、山芋などを汁の中に浮かしたものになりました。室町時代には、これらの羮から汁をのぞいて蒸した羊羹が生まれ、次第に現在の練羊羹の形に近づいていきました。
しかし、"あん"が現在のように親しみやすい庶民の味になったのは、ようやく江戸時代になってからのこと。たとえば羊羹についても、江戸時代には「今製練羊羹、赤小豆一升を煮て、あくを取り去ること三四回、其後皮を去り、漉粉となし、唐雪砂糖七百目、是も煮てあくを去り、乾(寒)天二本半を煮て之を漉す。煮詰めて製すを練羊羹と云ふ(守貞漫稿後集巻一)」と記録されるほどに一般的な菓子となりました。お菓子屋さんの工夫で大福餅やきんつば、おはぎなどのヒット商品が次々と生み出され、次第に今日のような多様な和菓子が形作られていったのも、やはり江戸時代のことだといわれます。

このように中国から伝来した「あん」は我が国の文化を十分に吸収し、熟練した食の匠たちの手によって次々と新しい食べ方が生みだされてきました。今や、日本に根付いた伝統的な食品として、若い人からお年寄りにまで広く愛される存在となっています。
しかしもちろん、"あん"はその歩みを止めたわけではありません。甘さを抑えた「ヘルシーあん」や「小倉アイスクリーム」、野菜や果実を原料に使用した「かわりあん」など、表情豊かな食品へとこれからもさまざまに姿を変えて愛され続けることでしょう。"あん"は、和菓子はもとより洋菓子にも活かせる素材として魅力を広げ、古くて新しい食材として、今も昔も、わたしたちの舌を飽きさせることなく楽しませてくれるのです。